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〜射和の町にまつわる歴史のご紹介〜

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櫛田川 櫛田川 −射和商人の育ての母
 射和(松阪)と相可(多気)の間には櫛田川が流れています。
古くより豊富に鮎が住む清流として有名で、現在でも両郡橋を渡った川向こうの相可には、鮎料理屋や甘露煮を売る店が多く残っています。
 しかし櫛田川が射和の町に与えた恩恵は、相可の比ではありません。当時射和の8kmほど上流には水銀の産地であった丹生があり、水銀を輸送する中継地の役割を担っていました。
水銀の精錬・加工をする一方、それを原料に化粧品や医薬品として珍重された射和軽粉(伊勢おしろい)を製造し、これにより射和の商人たちは莫大な富を得たのです。

橋 2つの郡をまたぐから「両郡橋」 
 江戸中期、白子屋よりも100mほど上流の地点に、射和と相可を結ぶ渡船がありました。
新熊野街道の開設に伴い、この渡し場の跡を利用して明治21年1月、本格的な橋が架設され、紀州両州の動脈化に大きく貢献することとなりました。
橋の名前は「両郡橋」。飯野郡射和村(現:松阪市射和町)と多気郡相可村(現:多気郡多気町相可)にまたがっていることから名付けられました。
以後、明治41年に2代目が、昭和32年には国道42号線の開通に伴い、現在の地点に3代目が架設されました。この3代目が今の両郡橋です。

大淀三千風 漂泊の俳人、大淀三千風 
 大淀三千風(おおよどみちかぜ)は商家に生まれながら生涯を旅に費やし、句を読み続ける人生を送った、江戸中期に射和から輩出した高名の俳人です。
 67歳で故郷射和に帰って病床に伏し、69歳で生涯を閉じるまで、全国を訪ね歩いて作句活動を続け、7巻7冊にわたる「日本行脚集」を刊行しました。
 西池上(多気町)の旧明通寺境内には供養碑が建っています。これは同寺が明治11年にこの地へ移転された折、この碑も一緒に遷されたものです。
また、射和の町が一望できる秋葉山には、三千風の顕彰碑が建っています。
町並み 豪商を育てた町 
 射和は、多くの商人が育った町です。
松阪木綿を目玉商品に、”現金掛け値なし”の新商法で、またたく間に江戸一の呉服商にのし上がった三井家(のちの三越)、代々手堅く身上を積み重ねた長谷川家・・・地元には莫大な財をなした商人が多数いました。しかし、彼らより半世紀も前に江戸進出を果たしていたのが、射和の富山家です。
富山家は「伊勢おしろい」の精製で基礎を固めたあと、4代目・栄重が小田原で呉服商を開業します。文禄元年には江戸に呉服店を開き、やがては京都や大阪にも支店を出すほどまでになり、さらに副業としていた両替商でも鳥羽、紀州、彦根藩などの御用達となり、すさまじいほどの発展をとげました。
富山家の後に続いた「K&K」の国分家、「ちくま味噌」の竹口家は現在でも業界にその名を知られています。


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